『アルプスとリビング』

早稲田大学演劇倶楽部第32期新人企画

おいで!/伊藤

伊藤鴎です。

 

アルプスとリビング、いよいよ明日、千秋楽です。


本編と関係あるようで、ないようで、実はあると見せかけて、やっぱりないかと思いきや、少しはあるかもしれないお話をします。

 


私の初恋のひと、スナフキン
自由と孤独を愛する、といえば、聞こえはいいものの、言い方を変えれば、友達いなそう、家もなさそう、たぶんお金もなさそう、みたいなひとです。

 


そんなスナフキンムーミンの最初の出会いは釣り。

ふたりは釣った魚を食べたあと、こんな会話をします。

※()はスナフキンの言葉に対するムーミンの返事

 

 

そんなにうまいかい。
(ああ、うまかった。ところできみなんていうの)
スナフキン
(どこからきたの)
あっちさ。
(どこへいくの)
こっちさ。あてはないのさ。気の向くまま、風の吹くまま、ぶらぶらとね。
(へえ、かわってるんだなあ。きみのくにはどこ)
故郷はべつにないさ。しいて言えば地球かな。
(さびしくないの)
時にはね。でもおれにはたびがあるよ。
(たび)
そう、おれは決めたんだ、世界じゅうを歩いてみようとね。いちど決めたら最後までやりぬく、それがおれの人生さ。

 

 

さて、スナフキン。なかなか過激なひとです。もうすぐ春休みが明けて新学期がはじまるわけですが、自己紹介で失敗しないように我々も気をつけたいものです。スナフキン先輩、ムーミンと初対面にも関わらず、使う言葉がいちいち「おおきい」。あっち、だとか、こっち、だとか、地球、とか。

 

何か、思いのたけを言葉にする際、おおきな言葉を使うことにはある種の驕りが一定の純度でつきまとうものと思います。実際、おおきな言葉を用いたおおきな主題についての発言がtwitter上で炎上しているのをよく見かけます。それは自分の知らないはずの世界のことをあたかも見知っているかのような態度をそこに垣間見るからでしょう。

 

しかしながら。

 

結局のところ、どんな手を使ったとて、所詮、おおきな言葉たるおおきな世界そのものを見知ることは断じてできないし、つまるところ、自分の目の前で起きていることが、自分が知覚できることだけが、自分にとっての世界の全てであるということもまた事実であるとも思います。要するに何が言いたいかというと、世の中には自分が知覚できないことの方が沢山あるという事実を軽んじることがいけないのであって、自分の心のなかにおおきな言葉を抱くこと自体はむしろ、自分の知覚する世界の純度が、そのひと自身にとって、溢れそうなほど切実に高まっている証拠、として愛おしく思われるべきなのではないかと私は思います。

 

そして、実はそうすることの方が難しいのかもしれないとも思います。
どこまでが自分にとっての世界なのかを考えることは「ずるい」ことと分かっているからです。どうしたって、自分の都合でしかない、それでも、私にとっての世界は、ここにあります、と言い切ることは勇気のいることです。

 

 

どこからきたか。
あっち。

どこへいくか。
こっち。

 


スナフキンの言葉を借りれば、

 


あっち、とはどこで、こっち、とはどこなのか。そもそも、あっちとこっちは何処からがあっちで何処からがこっちなのか。

 

そんなこともわからないまま、私たちは日々生きています。

 

あっち、を決めているのも、こっち、を決めているのもいるのも結局のところ自分自身です。

いま自分がいるのは何処かというのも、自分が立っている場所が自分の立っている場所だ、ということしかわかりません。

 

自分と自分をとりまく、ちいさくておおきい世界のこと。
あっちもこっちも同じ場所のはずなのに、すごく近くてすごく遠い。

 

自分にとって身近なひとやものであればあるほど、関わりあうなかで、ふとした瞬間、突然沸いてくる淋しさの正体はきっとこれです。

 

そんな淋しさを照れながら優しく抱きしめる日があってもいいんじゃないでしょうか。

 

 

明日、私たちと山に登りましょう。疲れたら登る途中でお家に帰ってもいいです。それでまた、なんとなくおそとに出てみてもいいです。

 


気の向くまま、風の吹くまま、ぶらぶらとね。

 

 


アルプスとリビング、まもなく千秋楽です。最後まで、どうぞ宜しくお願いします。